竹原だからこそ生まれ育った誠鏡
今も人のつながりでお酒が造られています
なぜ、誠鏡ブランドが竹原で生まれ育ったのか、なぜ今も竹原で作られる雄町米にこだわるのかをご紹介します。
なぜ、誠鏡ブランドが竹原で生まれ育ったのか、なぜ今も竹原で作られる雄町米にこだわるのかをご紹介します。
中尾醸造が生まれた竹原の地は、平安時代に京都・下賀茂神社の荘園として栄えた歴史から、「安芸の小京都」と呼ばれています。
製塩地として飛躍的に発展した時代は、地域全体が豊かな経済力を持っていました。
国の重要伝統文化財として、今も街並みは昔と変わらずに残されています。
竹原が塩田として栄えたのは、日照時間が長く降雨量が少ない独特の環境のため、他地域よりも塩田が育ちやすい環境にあったからです。
この環境は、同時に米の栽培においてもとても良い環境でした。
そのため、酒造りが発展したのは自然の成り行きだったといえます。
日照時間、降雨量など酒造りに適した環境と、塩田により潤う地域経済が相まって、大正時代に竹原地域は大きな発展を遂げました。全盛期には26軒の造り酒屋が存在していました。
写真は竹原酒造組合で大山祗神社国宝館開館式に参拝したときのものです。
私たちは現在も5件の契約農家とともに、竹原仁賀地区で雄町米を作っています。
雄町米は1859年に岡山で生まれ、竹原に伝わりました。
雄町米は現在酒米としてとてもポピュラーな「山田錦」や「五百万石」のルーツとなっている酒米です。
野生種であることから病弱な品種で、戦時中は生産量が激減し幻の酒米と言われるようになりました。
現在は私たちを含めた多くの酒蔵の努力によって復活しています。
雄町の特長としては以下の5点があげられます。
これらすべての特長が、私たちの目指す酒造りと一致し、米作りに適したこの地で農家さんとパートナーとなることで、地元産雄町米での酒造りを実践しています。